エンプロイアビリティ・パラドクス
えんぷろいあびりてぃぱらどくす
監修:平康慶浩(セレクションアンドバリエーション株式会社 代表取締役|グロービス経営大学院客員准教授。人事コンサルタントとして30年以上、等級・報酬・評価制度の設計に携わる)
エンプロイアビリティ・パラドクスとは、「人材を育てると外部労働市場での価値が上がり転職されてしまう」という通念に対し、実際に離職を招くのは能力を高めたこと自体ではなく、高めた能力を活かす場を組織が用意しないことである、という逆説を指す、セレクションアンドバリエーションが提唱する概念である。育成投資を抑制することは定着の手段にならず、むしろ組織の成長を損なうという結論を導く。
背景・時事文脈
育成投資を抑制する判断の背後には、育成が転職を促すという想定がある。
しかしこの想定に立つと、リスキリングのような施策そのものが、定着施策と矛盾する取り組みとして扱われることになる。
政策の方向はこれとは逆である。
厚生労働省は人材開発支援助成金において、事業展開等に対応した訓練への助成を設けており、第11次職業能力開発基本計画も産業構造・社会環境の変化に対応した職業能力開発の推進を柱としている。
育成投資は抑制すべきコストではなく、事業構造の転換に必要な投資として位置づけられている。
離職の実態を見ても、育成の有無だけで説明できる構造ではない。
令和6年雇用動向調査によれば、年間の離職率は14.2%、入職率は14.8%であり、労働移動は常態として発生している。
育成を抑制しても労働移動は止まらず、抑制した分だけ組織の能力が失われるという構造が背景にある。
人事制度設計上の論点
この逆説を制度に落とし込むと、設計の焦点は「育てるかどうか」ではなく「育てた能力を使わせる仕組みがあるか」に移る。
第一に、能力と配置の接続である。
研修や資格取得を支援していても、習得した能力を発揮できる職務への異動経路がなければ、能力は組織の内部で滞留する。
社内公募や複線型人事制度によって、能力を起点とした配置の経路を用意する必要がある。
第二に、能力と処遇の接続である。
職能資格制度であれば等級要件に、役割等級制度であれば担いうる役割の拡大として、習得した能力が処遇に反映される道筋が必要になる。
反映されなければ、能力を高める動機は組織の外部——転職——にしか向かわない。
第三に、企業特殊的人的資本への偏りを避けることである。
社内でしか通用しない能力ばかりを蓄積させる設計は、短期的には定着に寄与するように見える。
しかし、それは選択の結果としての定着ではなく、選択肢の欠如による滞留である。
滞留は静かな退職を生みやすく、組織の生産性には貢献しない。
第四に、定着の理由を「辞められないこと」から「辞めない選択をすること」へ移す設計である。
外部でも通用する能力を持ちながら在籍を選ぶ状態は、組織にとって最も健全な定着である。
この状態を作るには、能力の育成、活かす場の提供、そして在籍を選ぶに足る処遇と役割の三つが同時に必要になる。
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この逆説の根拠となる研究と、育成・活用・定着を成立させる三つの設計要素については、平康慶浩による論考『40代後半で転職できるプロ人材を増やすことが会社を伸ばす』で詳しく解説している。