企業特殊的人的資本
きぎょうとくしゅてきじんてきしほん
監修:平康慶浩(セレクションアンドバリエーション株式会社 代表取締役|グロービス経営大学院客員准教授。人事コンサルタントとして30年以上、等級・報酬・評価制度の設計に携わる)
企業特殊的人的資本(firm-specific human capital)とは、特定の企業の中でのみ、あるいはその企業において特に高い価値を発揮する知識・スキル・関係性の蓄積を指す労働経済学の概念である。 どの企業でも通用する一般的人的資本(general human capital)と対置され、ゲイリー・ベッカー(Gary Becker)の人的資本理論に由来する。
背景・時事文脈
自社製品・業務プロセスへの習熟、社内の人的ネットワーク(誰が何を知っているかというノウフー)、組織文化の理解などが企業特殊的人的資本の典型である。
転職しても持ち出せないため、その形成費用と収益は企業と従業員が分担・分配するというのが理論の基本的な含意である。
雇用流動化と市場価値志向のキャリア観が広がる現在、従業員は持ち運べる一般的スキルへの投資を優先しやすく、企業特殊的な能力の蓄積が細ることが組織能力の観点から課題となっている。
一方、AI時代には汎用スキルの代替可能性が高まり、組織固有の文脈知の価値が相対的に見直されつつある。
人事制度設計上の論点
企業特殊的人的資本の理論は、長期の処遇設計に根拠を与える。
第一に、報酬カーブの設計である。
企業特殊的能力への投資期(若手期)に市場水準を下回らず、蓄積が価値を生む中堅期以降に報いる賃金カーブは、理論的には労使双方の投資回収の設計である。
退職金・昇格運用を含め、長期の貢献に報いる仕組みをどの程度残すかという論点につながる。
第二に、評価制度の論点である。
社内知識の共有・後進育成・部門間調整といった企業特殊的な貢献は市場価値に表れにくいため、行動評価・役割定義で明示的に評価しなければ制度上「見えない仕事」になる。
第三に、企業が特殊的能力の形成に投資し、従業員がその蓄積で応える関係を制度化する相互投資型人事制度の考え方は、この理論を現代の制度設計に展開したものと位置づけられる。
ジョブ型化で職務の市場価値を基準にするほど、企業特殊的な貢献の処遇上の扱いを別途設計する必要が生じる。
より深く読む
企業特殊能力(ノウフー・組織内の知の所在)とキャリアの関係については、平康慶浩による論考『ゼネラリスト vs スペシャリストはもう古い ― 勝つのは「第三の人材」』で詳しく解説している。