―ルーヴェン大学の588名縦断研究が覆した「育てたら辞める」という経営の常識

人事コンサルタントの平康慶浩(ひらやすよしひろ)です。
弊社ではコンサルタントの自律的学習を支援する仕組みがいくつもあります。
たとえば年間2回を基準とした、グロービス受講機会の提供。1回あたり15万円くらいの費用がかかるので、これだけで全員に30万円相当の教育費を毎年かけています。
さらに等級に応じて自由に使える予算は10万円~20万円ほど付与。この用途は全く問いません。
くわえて、書籍購入は自己承諾でOK(と言いつつもみんな事前承諾を求めてきますが)。費用を気にして本を買わない、という選択肢を排除しています。
さらにセレンディップ(https://www.serendip.site/)という、評判の書籍のダイジェストサービスに加入し、全員に配信しています。
また評価基準においても、自己研鑽に加えて、他社への良い影響をどのように与えたか、という項目を用意することで、学習を学習で終わらせないような仕組み化を図っています。
それらの学習結果をコンサルティングの現場で発揮し、そこから新たな問いを得て学びを繰り返す。
その循環こそが一人一人の成長を当たり前にし、弊社の成長を実現すると信じているためです。
けれどもこんな話をクライアントの経営層にすると、苦笑いしながら首を振られてしまいます。
「うちでそんなことをしたら、社員が自分に自信をもってしまって、転職してしまいますよ」
実際問題、多くの経営者が、そう信じているということを、コンサルティングの現場で実感してきました。
だから育成投資には慎重になる。
特にオーナー企業では「せっかく育てた社員が他社に行ったら丸損だ」という感覚が根強くあります。
しかし、この常識を正面から検証した海外研究があります。
結論から言うと、育成投資で人は辞めません。辞めるルートは、たった一つだけでした。
「育てたら辞める」を実際に検証した研究
ベルギー・ルーヴェン大学(KU Leuven)のネリッセンらの研究チームが2017年に発表した論文は、「エンプロイアビリティ・パラドックス」を検証したものです。
少しわかりにくい名前ですが、中身はシンプルです。
社員の雇用され得る力(エンプロイアビリティ)を高める育成投資は、社員を他社にとっても魅力的にしてしまう。
つまり育てるほど転職リスクが上がるのではないか、という経営者の懸念のことです。
この研究の価値は、検証の設計にあります。
588名の従業員を2時点で追跡する縦断調査を行い、転職「意向」というアンケート上の気持ちではなく、実際に辞めたかどうかという行動を確認しました。
そのうえで、研修や昇進を伴う異動など6種類の育成施策と離職の関係を分析しています。
このとき研究チームは、エンプロイアビリティを2つに分けました。
他社で通用するという感覚(外的エンプロイアビリティ)と、いまの会社の中で活躍の場があるという感覚(内的エンプロイアビリティ)です。
結果は、経営者の常識を裏切るものでした。
- 実際の離職を増やしたのは、6種類の施策のうち「昇進を伴う異動」だけでした
(例えば転勤や異動と昇進をセットにして、意にそわない転勤や異動を促しても、それは引き留めにならなかった、ということです) - 研修をはじめとする他の育成活動は、離職を増やしませんでした
- そして、社員にスキルを発揮させること(スキル活用)には、離職を直接減らす効果がありました
研究チームの結論は明快です。エンプロイアビリティ・パラドックスは、過大評価されているのです。
「育てると辞める」のではありません。育てた能力を使わせないから、辞めるのです。
日本の労働市場は、もう「囲い込み」が効かない
この研究結果を、日本の現状に重ねてみましょう。
リクルートエージェントの転職者データによると、40〜59歳のミドル世代の転職者数はこの10年で約6倍になりました。
マイナビの転職動向調査2026年版では、2025年の正社員転職率は7.6%と過去最高水準で、特に40代・50代は2021年以降、右肩上がりが続いています。
かつての「35歳転職限界説」は、もう過去のものです。
そして同じ調査で、もう一つ重要なポイントが読み取れます。
転職者の半数以上が、前職で「キャリアの停滞感」を感じていたと答えているのです。
これ、人事の現場で考えると重い数字ではないでしょうか。
育てなかったから辞めた、という因果がここに見えます。
囲い込んでも辞める。
むしろ育てないことが、辞める理由になっている。
前提がすでに変わっているのです。
それでも残る、オーナー社長の3つの反論
とはいえ、私が人事コンサルティングの現場でオーナー社長とお話しすると、反論は決まって3つ出てきます。順に検証します。
反論1「投資回収前に辞められたら丸損だ」
ネリッセンらの研究が示した通り、通常の育成投資で人は辞めません。
警戒すべきは昇進を伴う処遇変更の局面だけです。
では昇進させなければよいのかというと、それこそ停滞感を生んで人を流出させます。
対処すべきは昇進の有無ではなく、昇進後に力を発揮できる役割設計です。この点は後述します。
反論2「育てたら給与相場が上がる。コスト増だ」
給与だけ見ればそうです。
しかし比較対象を間違えています。
比べるべきは「プロ人材の給与」と「転職できない人材が滞留するコスト」です。
年功で賃金だけが上がり、市場価値が上がらないまま50代を迎えた層。
私はこれを、実質的な超過雇用と呼んでいます。
仕事量に対して人が余っている状態のことです。
この層の人件費は損益計算書に紛れて見えませんが、変革の局面では確実に組織の足を引っ張ります。
プロ人材の給与増は見える。滞留コストは見えない。
見えないほうが高くつくケースを、私は何度も見てきました。
反論3「転職できない社員が、そこそこの給与で頑張ってくれるほうが安定する」
お気持ちはよくわかります。
一見、合理的なんですよね。忠誠心の高い安定層で組織を回すという発想です。
しかしこの戦略には構造的な欠陥があります。
「転職できないこと」を定着の仕組みにすると、転職できる人から順に抜けていき、転職できない人だけが残ります。
人材の逆淘汰です。
しかも、辞められないから頑張るのは、エンゲージメントではありません。
しがみつきです。
両者は外から見ると似ていますが、新しい挑戦への態度で決定的に分かれます。
しがみつく人は変化に抵抗します。
自分の市場価値のなさが露呈するからです。
安定層で固めた組織は、変革が必要になった瞬間に動けなくなります。
「転職できるのに、ここにいる」を設計する
では、どうすればよいのか。目指す状態は一つです。
転職できる実力を持つ社員が、それでもここにいたいと自ら選んでいる状態。これが組織として最も強い形です。
裏づけになる研究もあります。
中国の研究チームが337名を対象に行った2021年の調査では、市場価値の高い社員ほど離職に傾く経路は確認されたものの、社内に活躍機会があると感じている社員では、その経路が弱まることが示されました。
市場で値段がつく人材でも、いまの会社で力を発揮できる実感があれば辞めない。
ネリッセンらが見出したスキル活用の定着効果と、同じ方向を指しています。
設計のポイントは3つです。
1つめは、プロ化への投資です。
45歳前後は、それまでの経験を「社外でも値段がつくスキル」に転換できる最後の好機です。
修羅場経験や部門を越えた挑戦の機会を意図的に与え、本人のスキルを市場の言葉で棚卸しさせる。
ここを避けて通ると、後払い賃金だけが積み上がります。
2つめは、活躍機会の設計です。
育てた能力の使いどころを、等級制度と役割設計で明示的に作ることです。
研修だけして仕事は変えない、というのが最悪のパターンです。停滞感の入り口になります。
3つめは、残留を「選択」にするサポートです。
柔軟な働き方、処遇の納得性、家族も含めた生活基盤を支える福利厚生。
これらは転職できない人を縛る道具ではなく、転職できる人に「それでもここがいい」と言わせるための投資です。
辞められないから居るのではなく、辞めないことを選んでいる。
この違いが、組織の空気を決めます。
そして仮に辞めたとしても、プロとして送り出した人材はアルムナイとして顧客や紹介者になり得ますし、「あの会社に行けばプロになれる」という評判は採用市場で強力な武器になります。
育成投資は、辞めた後まで含めて回収できるのです。
囲い込みこそ、最大のリテンション失敗

40代後半で転職できるプロ人材を増やすことは、流出リスクではありません。
定着力と採用力と変革力を同時に手に入れる、最も確実な投資です。
逆に、社員を転職できないままにしておく囲い込みは、短期的には安定して見えて、実は最大のリテンション失敗です。
残ってほしい人から辞めていくからです。
御社の45歳には、いま転職市場で値段がつくでしょうか。
もしつかないとしたら、それは安心材料ではなく、警報だと私は考えています。
参考文献
- Nelissen, J., Forrier, A., & Verbruggen, M. (2017). Employee development and voluntary turnover: Testing the employability paradox. Human Resource Management Journal, 27(1), 152–168.
- Zhang, X., Deng, H., Xia, Y., & Lan, Y. (2021). Employability paradox: The effect of development idiosyncratic deals on recipient employees’ turnover intention. Frontiers in Psychology, 12, 696309.
- 株式会社リクルート「ミドル世代の転職動向」(2025年3月)
- 株式会社マイナビ「転職動向調査2026年版(2025年実績)」
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