
人事コンサルタントの平康慶浩(ひらやすよしひろ)です。
先日、クライアント企業の人事部長から、社内の若手が真剣な顔で相談に来た、という話を聞きました。
「うちの会社、今度『子育て応援手当』ができましたよね。
でも友人にそれを話したら
『それ、ベースアップを抑えるための目くらましじゃないの?騙されてない?』
と指摘されたんです。
部長、本当のところはどうなんですか?」
期待していた若手からこんな質問を受けて、複雑な気持ちになったと。
せっかくしっかり検討して、新たに予算も獲得して、経営会議で承認を得て導入した手当なのに、と。
あなたは若手と人事部長、どちらの感覚に近いでしょうか。
例えば会社に対する不信感が強い人はこう思うかもしれません。
会社が何かを従業員に与えるとき、その裏には必ずコスト削減の意図がある。
つまり会社が損をしてまで従業員になにかしてくれることはない、という考え方です。
従業員に何かを与えるときには、別の何かをとりあげているはずだ、と。
この感覚を持つ人は割と多いですよね。
というか、実際のところ大半がそうなのかもしれません。
人事の世界ではこれを「ゼロサム発想」と呼びます。
パイの大きさは決まっていて、誰かの取り分が増えれば誰かの取り分が減る、という考え方です。
この記事では、この「騙されてない?」という違和感を、行動経済学の実証研究で解明体していきます。
結論から言うと、エンゲージメント向上のための施策はゼロサムだけ、ではありません。
ただしそれは、「人件費は投資だ」という綺麗事とはまったく違う理屈によってです。
「賃上げはゼロサム」という直感は、実は正しい
先に。正直にお話しすると、ゼロサムで検討することはとても多いです。
たとえばインフレ対応としての、ベースアップのような一律賃上げについては、「会社の損=従業員の得」というゼロサム的な直感が、実証的におおむね正しいんです。
Abowd(1989)は、米国企業の労使交渉データを分析し、予想外の賃上げが企業の市場価値をほぼ同額だけ引き下げていたことを示しました。
株式市場は賃上げを「株主から従業員への富の移転」として、ほぼ1対1で織り込んでいたわけです。
「人件費はコストではなく投資です。将来のリターンを考えて判断すべきです」という言葉を、私自身、研修やセミナーで何度も口にしてきました。
しかし経営者の本音は違います。「投資と言うが、賃上げの分だけ利益が減るのは事実だろう」と。
その本音、実は間違っていません。
一律の賃上げそのものは、市場からゼロサムとして評価されている。まずここを認めるところから始めたいと思います。
それでも従業員満足度は企業価値を生む
では、従業員に報いることはすべてゼロサムなのか。
そうではないことを示したのが、Edmans(2011)の有名な研究です。
米国の「働きがいのある会社ベスト100」に選ばれた企業の株式ポートフォリオは、1984年から2009年までの間、リスク要因を調整した後でも年率3.5%の超過リターンを上げていました。業種で調整しても2.1%です。
従業員満足度の高さは株主価値と両立するどころか、市場がまだ織り込めていない超過リターンの源泉だった、という分析結果です。
ただし、この分析には条件があります。
その後の国際比較研究では、この効果は米国や英国のように労働市場が柔軟な国で確認され、雇用規制が強く労働市場が硬直的な国では弱いことがわかっています。
日本はまさに後者です。
つまり日本企業では、「従業員満足にお金を使えば自然に回収できる」とは言えません。
いくら使うかではなく、どう設計するかの勝負になるということです。
賃上げはゼロサム。満足度は非ゼロサム。この2つをつなぐ鍵が、人事制度としての設計、です。
3+1>4:同じ費用でも、渡し方で総量が変わる
ハーバードの研究者たちが2016年に発表した実験に、そのものずばりのタイトルがついています。
「When 3+1>4」。
3足す1は4より大きい、です。
Gilchrist, Luca & Malhotra(2016)は266人の労働者をオンラインで雇い、時給の設定だけを変えて生産性を比較しました。
グループA;時給3ドルを払って仕事をしてもらう人たち。
グループB:時給3ドルで契約したんだけれど、作業の前に「予算に余裕ができたから1ドル増やすよ」と伝えた人たち
グループC:事業4ドルを払って仕事をしてもらう人たち。
グループBとCは時給は同じ4ドルですが、契約の後でそれを教えられるか、最初からその前提だったのか、が違います。
結果は意外なものでした。
最初から相場より高い時給を提示されたグループCの生産性は、相場通りの時給のグループAと変わりませんでした。
時給が3ドルでも4ドルでも、それで契約しているのなら生産性は変わらなかったのです。
ところが、いったん相場の時給で契約したあとに「予算がついたので上乗せします」と伝えられたグループだけが、仕事の最後まで高い生産性を維持したのです。
支払総額は同じです。違うのは、上乗せ分が「贈り物(ギフト)」として認識されたかどうかだけ、ということでした。
つまり、従業員は金額の多寡でモチベーションを高めているのではなく、金額に込められた意図でモチベーションを変えている、ということでした。
だから同じ1万円の手当でも、意図が伝わる設計なら生産性が上がり、伝わらなければただの費用で終わる。
ゼロサムかどうかは、金額ではなく設計が決めるのです。
これが「エンゲージメント施策はゼロサムではない」の正体です。
パイの分配ではなく、渡し方によってパイそのものが増える余地があるということです。
なぜ手当が刺さるのか:3つのメカニズム

では、なぜ昇給よりも手当のほうが刺さる場面があるのか。実証研究から3つのメカニズムが読み取れます。
現金より「意味のあるモノ」が効く
Kube, Maréchal & Puppe(2012)の実験では、データ入力の仕事をする労働者に、7ユーロの現金ボーナスか、同額の魔法瓶をサプライズで渡しました。
現金は生産性をまったく上げませんでした。一方、魔法瓶は生産性を25%引き上げたのです。
面白いのはここからです。
労働者に選ばせると、ほとんどの人が現金を選びます。
それでも、選んで受け取った後の働きぶりは、モノをもらったときと同じように上がる。
さらに、現金でも折り紙のように手間をかけた形で渡すと効果が出たことも確認されています。
つまり効いているのは金銭価値ではなく、「自分のために手間をかけてくれた」という認識なんです。
手当は「色のついたお金」になる
経済学の教科書では、お金に色はありません。
基本給の3万円も手当の3万円も、同じ3万円のはずです。
ところがAbeler & Marklein(2017)は、人がお金をそのように扱わないことを実験で示しました。
受け取るお金に何らかのラベルがつくと、人はラベルの示す用途に沿って行動を変えるのです。
「子育て応援手当」という名前がついた3万円は、従業員の心の中で、基本給とは別の勘定科目に入ります。
そしてそこには金額以上の情報、つまり「会社は子育て中の社員の状況を見ている」というメッセージを受け取ります。
それは、昇給原資に溶かし込めば消えてしまう情報です。
全員一律より「一部限定」が効く
Bradler, Dur, Neckermann & Non(2016)は、300人以上を対象にした実験で、感謝カードによる承認の効果を検証しました。
最も効果が大きかったのは、全員に配ったときではありません。
最も成績のよかった一部にだけ渡したときでした。
しかも、もらえなかった人たちの生産性まで上がったのです。
一部限定の手当は、一見すると不公平に見えます。
しかし「何をすれば会社に認められるのか」という基準を示すシグナルとして機能するとき、対象外の従業員の行動まで変える力を持ちます。
実利が及ぶのは一部でも、期待は全員に届くからです。
ただし「騙すための手当」は必ず逆回転する
ここまで読んで、「なるほど、安い手当で従業員を操れるのか」と思われた方がいたら、それは危険な誤読です。
Gubler, Larkin & Pierce(2016)は、工場に皆勤賞を導入した企業のデータを分析しました。
遅刻がちだった従業員の出勤は、たしかに一時的に改善しました。
ところが、もともと真面目に出勤していた優良従業員は、賞の対象外だった日常業務の効率を8%も落としたのです。
「ずっと当たり前にやってきたことに、今さら賞をぶら下げるのか」という不公平感が、内発的な動機を壊してしまいました。
費用がほとんどかからない表彰ですら、期待の設計を誤ればマイナスになります。
手当も同じです。
ベースアップを抑える目くらましとして設計された手当は、従業員に見抜かれた瞬間、金額以上の信頼を毀損します。
私は常々「設計はクールに、運用はホットに」と申し上げてきました。
手当の設計は、誰に何を期待するかを冷静に構造化する作業です。
そして運用では、その期待を本気で信じて伝えきる。
どちらが欠けても、会社の信頼はむしろ下がってしまいます。
冒頭の社員は、騙されていたのか
さて、冒頭の若手社員に戻ります。あの社員は騙されていたのでしょうか。
答えは、手当の設計次第です。
その手当が「会社はあなたのこの状況を見ている」という本物の期待を運んでいるなら、騙しではありません。
従業員の喜びも、その後の貢献も本物で、会社と従業員の双方が得をします。
同じ原資を一律昇給に溶かすより、生み出される総量は大きくなる。
これが非ゼロサムということです。
逆に、コスト削減の目くらましとして作られた手当なら、遠からず見抜かれます。
そのときはゼロサムどころか、信頼という一番高い資産を失うマイナスサムです。
「それ、騙されてない?」と問われたとき、胸を張って設計意図を説明できる手当かどうか。
エンゲージメント施策の分かれ目は、結局そこにあるのではないでしょうか。
参考文献
- Abowd, J. M. (1989). The Effect of Wage Bargains on the Stock Market Value of the Firm. American Economic Review, 79(4), 774–800.
- Edmans, A. (2011). Does the Stock Market Fully Value Intangibles? Employee Satisfaction and Equity Prices. Journal of Financial Economics, 101(3), 621–640.
- Gilchrist, D. S., Luca, M., & Malhotra, D. (2016). When 3+1>4: Gift Structure and Reciprocity in the Field. Management Science, 62(9), 2639–2650.
- Kube, S., Maréchal, M. A., & Puppe, C. (2012). The Currency of Reciprocity: Gift Exchange in the Workplace. American Economic Review, 102(4), 1644–1662.
- Abeler, J., & Marklein, F. (2017). Fungibility, Labels, and Consumption. Journal of the European Economic Association, 15(1), 99–127.
- Bradler, C., Dur, R., Neckermann, S., & Non, A. (2016). Employee Recognition and Performance: A Field Experiment. Management Science, 62(11), 3085–3099.
- Gubler, T., Larkin, I., & Pierce, L. (2016). Motivational Spillovers from Awards: Crowding Out in a Multitasking Environment. Organization Science, 27(2), 286–303.
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