なぜSaaSがWill・Can・Mustを徹底すると、赤字期間が拡大するのかー自発性を促す仕組みが、Jカーブを毀損してしまう三つの理由

セレクションアンドバリエーション株式会社 代表取締役 平康慶浩
平康慶浩|セレクションアンドバリエーション株式会社 代表取締役|グロービス経営大学院客員准教授 人事コンサルタントとして30年以上、等級・報酬・評価制度の設計に携わる

継続課金型の事業、いわゆるSaaSビジネスでの赤字は、ビジネス設計失敗ではありません。
一定期間の赤字構造は、むしろあらかじめ設計され、継続していくものです。

具体的には、顧客獲得に先に金を使い、後から月々の収益で回収することが、SaaSビジネスの典型パターンだからです。ある意味、インフラビジネスに近い構造かもしれません。
そもそも投資額がそれなりに大きいので、まずは顧客数を増やすことが第一課題です。
その期間は赤字のままですが、CRR(Customer Retention Rate 顧客維持率)を一定水準以上に維持しながら、MRR(Monthly Recurring Revenue 月次経常収益)やARR(同 年間経常収益)を増やしていくことができていれば、どれくらいで黒字に転じていけるかがある程度予測がつきます。

この二つの指標がある程度の水準を維持できていれば、事業が赤字であることは、あまり問題にはなりません。

問題は、これらの指標が悪化している場合です。
そして時に、CRRやMRR、ARRといった指標悪化の原因が、事業側ではなく人事施策の側にあることに経営者が気づいていない場面を見てきました。

具体的には、Will・Can・Mustを徹底した結果、SaaSとしての経営指標が悪化する場面です。

誰しもが良い制度だと考えているWill・Can・Mustの仕組みが、なぜ経営を悪化させるのか。
その理由は、順序を間違えると、良い取り組みも効果を発揮できない、という問題です。


目次

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SaaSの生産性は、工程を細かく切ることから生まれる

まず、SaaSビジネスの成功要因を考えてみましょう。

それは、業務工程の細分化と、KPIによる工程間の生産性管理の徹底だと、私は認識しています。

シンプルに定義してしまえば、SaaSビジネスの工程は、以下の4ステップに区分できます。

STEP
マーケティング 認知獲得とリード(見込み客創出)
STEP
インサイドセールス リードの選別・育成・商談設定
STEP
フィールドセールス 商談から受注まで
STEP
カスタマーサクセス 導入定着・活用支援・拡張

これらは、2011年にSalesforceが確立した営業組織の概念で、「The Model」と言われたりします。
工程ごとの業務とKPIを明確にして、専任者を置き、生産性を高めていく考え方です。

これの設計では、属人性を排し、再現性を高め、どこで問題が生じているかが可視化されます。
また専任者の習熟も速くなります。やるべき内容が絞られているので、新人を採用して戦力化する期間を短縮できるので、規模の拡大にも貢献します。

SaaSの急速な成長を実現するドライバーが、まさにこの分業そのものだといえるでしょう。
それはあたかも、1900年代初頭にフォードの工場で生まれた、分業による生産性概念の提唱そのものと一致しています。


工程を細かく切ると、動機の源泉が4つ削られます

ただしこの分業体制には、それなりに大きな副作用があります。

工程を細かく区切るほど、習熟は早くなるけれど、一人が担う仕事の幅は狭くなります。
そして仕事は自分のところで完結せず、前工程から受け取って後工程に流すだけの作業になっていくのです。
進め方の裁量も、標準化が進むほど小さくなり、日々の業務はシンプルな反復作業に近づいてゆきます。

ハンフリー(S. E. Humphrey)、ナールガン(J. D. Nahrgang)、モーゲソン(F. P. Morgeson)の3名が2007年に発表した統合分析(メタ分析)についての研究があります。
それは、仕事の設計(ワークデザイン)に関する文献を包括的に見直し、動機づけ、社会的、文脈的特徴を統合してその効果を検証したものです。
259の研究、参加者は延べ21万9,625名を対象としたこの分析では、動機づけに関わる職務特性として、5つの要素をピックアップしました。

技能の多様性、仕事の完結性、仕事の重要性、自律性、そして仕事そのものから返ってくる手応え。
この5つで、職務に対する満足度の34%が説明されました。

さて、ではSaaSのビジネスモデルにおける、分業とKPI設計は、この5つの要素とどのように関わるでしょうか。

技能は多様ではない。
仕事は完結しない。
重要度について、自分の担当領域だけで示せない。
自律性も不十分。
ただし、KPIに基づく仕事の手ごたえだけはしっかりある。

そのような仕事を続けることで何が起きるのか。

フォード式生産システムが拡大したのち、歯車のように働く人たちの息苦しさが社会に広がりました。
チャールズ・チャップリンのモダンタイムズは、その悲劇を喜劇として描きました。
また、組合活動の活発化にも影響した、という意見もあります。


SaaSビジネスの息苦しさへの処方箋として使われがちだったWill・Can・Must

このような息苦しさに、実際のところ、多くの経営層は気づいています。
従業員サーベイの数値も追っているし、退職面談の記録も読んでいる。
現場が疲れていることを、数字と肌感の両方で分かっています。

問題は、打てる手が限られていることです。

歴史をたどれば、フォード式の分業が生んだ息苦しさに対して、経営学が出した答えははっきりしていました。職務充実です。

ハーズバーグが1960年代に提唱した考え方(それでもフォード式生産システム誕生から半世紀が過ぎているのですが)で、仕事の幅を広げ、判断を任せ、成果が自分に返ってくるようにする。先ほど紹介したハンフリーらの研究も、この流れを引き継いだものです。
仕事のモチベート要因が職務から抜け落ちているのなら、職務にその要素を加えればよい。当然ながらこれが正攻法です。

ところが、SaaSの経営者はこの正攻法を採りにくいわけです。
なぜなら、工程を細かく分けて狭く深くやらせることが、そのまま習熟の速さと採用のしやすさを支えているからです。
なのにそこで仕事の幅を広げてしまうと、成長の速度を落とすということでもあります。資金調達のたびに成長率を問われる立場で、この判断はなかなか下せません。

もうひとつの正攻法である「賃金で報いる」も、赤字期には使えません。原資がないのですから、当然です。

職務の幅は広げられない。賃金も上げられない。
それでも何かしたい。そう考えたときに、経営層の視野に入ってくるのがWill・Can・Mustでした。

Will・Can・Mustが機能するためには実は採用から考えるべきだった

ここで、Will・Can・Mustという仕組みがどういう者なのかを整理しておきましょう。

Will・Can・Mustは、リクルートが半期ごとの目標管理に使ってきたシートとして知られています。
同社の説明によれば、このシートは創業以来、暗黙のうちに行われていた上長とメンバーの対話を、後から形にしたものでした。
そして多くの場合、リクルート従業員のような自発性が、この仕組みによって生まれてくる、というように理解されてきました。

職務におけるやらされ感を減らす。そもそも自分のWILLがあるから、今ここで働いているのだ、ということを明文化させる。
そしてできることを確認させることで、指示待ちを減らし、当事者としての動きを引き出す。
それらを踏まえ、MUSTとしてのやるべきこと(この場合はKPIを追うこと)を徹底させる、ということが期待されました。

さらにこの仕組みのメリットとして、上司や本人に働きかけることで、追加での原資が要りません。
等級制度を作り直すには時間も費用もかかりますが、面談の書式を配って回すだけなら明日からでも可能でした。
その結果として、会社としての誠実さも伝わり、離職も抑えられる。
人的資本経営の文脈で語れば、投資家にも採用市場にも説明がつきます。

たしかにSaaSビジネスが置かれた条件のなかでは、極めて合理的な判断として、多くの企業でWill・Can・Mustの仕組みが導入されました。

その結果、弊社に「うまくいかない」という相談が寄せられてきました。

問題は、順序にありました。

自発性があることが大前提で、その自発性を伸ばす仕組みが、Will・Can・Mustだったのです。
どんな人に対しても、Will・Can・Mustの仕組みが機能するわけではなかったのです。
そもそもリクルートは、自発性の塊のような人たちを採用していました。
だからこそ、この仕組みが機能し、さらなる自発性が生み出されました。

一方で、多くのSaaSビジネスが求める人材とはどういう人たちだったでしょう。

会社によって異なりますが、多くの場合は「決められたことをしっかり間違いなくこなせる人」だったのではないでしょうか。
そういった人たちは、自発性を求められることを、むしろ息苦しく感じます。
何をすべきかをしっかり示してほしいからこの会社に入ったのに、苦手な自発性を求められる。

良かれと思って(あるいはKPI管理の息苦しさをごまかそうと思って)Will・Can・Mustを導入した経営層からすれば、このような事実は、見えていたとしても、認めがたいものだったように思います。

実際問題、このようなロジックをお伝えした結果、ほとんどのSaaSビジネス経営者は黙り込んでしまいました。

Will・Can・MustがSaaSビジネスを毀損する3パターン

パターン1 自発性がある人がやめてしまう

半期ごとに全員のWillを確認し明文化する。その上司に対する研修を実施し、部下の自発性を促す。
そうした取り組みを徹底すればするほど、できる社員の自己認識はしっかり高まります。

ところが、赤字期のSaaSビジネスには、そのような人材に対して応える職務がありません。

少し話は膨らんでしまいますが、大企業でもそのような傾向はあります。
パーソル総合研究所が1万人を対象に行った調査(2021年)に、示唆的な数字があります。
社内公募による異動を経験した人は、全年代平均で2.9%。意思を表明する場はあっても、それが配置に反映される経路は、ほとんど存在しないのです。
同調査では、そうして会社を辞めてしまう人のパターンも示しています。キャリア自律度と転職意向のあいだに強い相関はありません。ただし自分の市場価値を高く認識している層に限ると、自発性が高いほど転職意向も高くなる。特に20代で顕著でした。

つまり先に抜けるのは、最も自発性が高い優秀層になりがちなのです。


パターン2 Will・Can・Mustにまじめに対応するほど生産性が下がる

転職を選ばず、Will・Can・Mustに誠実に応え続ける人についても、問題があります。

「マーケティングに関心があります」
「顧客と直接向き合いたい」

そのようなWillを表明した人にチャンスを与えるとどうなるか。
個人の志向を尊重した柔軟な配置転換として、称賛される運用ではあるのですが、結果として、部門の習熟度は下がります。

そもそも工程分業の強みは、狭い範囲の反復から生まれる習熟です。
そこに異動を適用してしまえば、その習熟が毎回ゼロに戻ります。
立ち上がるまでの数か月がもう一度必要になる。
しかも異動した先の工程では、前任者の生産性に届かないまま、業務を続けることになります。

これを繰り返せば、分業設計そのものの利点が薄まります。
皮肉なことに、Willに誠実に応えるほど、事業の生産性を支えていた構造が崩れていきます。

もちろん、配置転換をすべて止めろという話ではありません。
ただ、どの範囲までなら動かしても習熟が保たれるのか。その線を引かずに個別の希望に応え続けると、事業側は原因のわからない効率低下を見ることになります。


パターン3 報酬のない肩書は黒字化した際に巨大な債務になる

現金でも配置でも応えられないとき、会社が用意するのが、肩書です。

機能を切り出すたびに新しい役職名を与える。
昇給を伴わずに承認を示せて、投資家や採用市場への発信にもなる。赤字期の判断として、仕方ない部分もあるでしょう。

小さい会社ほど部下となる従業員がいないままでCXOが量産される傾向にうなずく人も多いでしょう。

けれども、部下がいないなど、職責が明確でない肩書は、のちに不満のためになりがちです。
グリーンバーグとオーンスタインが1983年に行った実験によれば、成果にもとづいて肩書を与えた場合に人はモチベーションを維持しまいた。
けれども、根拠なく肩書を与えると、逆にこの肩書に見合った処遇がされていない という不満を生んだそうです。
 


そして、赤字拡大のループが生まれてしまう

赤字期のSaaSで起きがちな3つのパターンを並べると、これらが循環する構造が見えてきます。

赤字だから現金で報いられない。
だから意欲を聴く場と肩書で代替する。
しかしこれらを徹底すればするほど、意欲に応えきれな状況が積み上がってゆく。
かろうじて意欲に報いようとしたら、組織としての分業の練度が落ちてしまう。
仮に肩書に処遇で応えれば人件費が膨らむ。
そうして黒字化に向けた期間が伸び、赤字が続く。
赤字が続くから、また現金以外で報いる。

このループに一旦陥るとなかなか抜け出せません。

難しいのは、このループのどこにも、間違った判断がなかったということです。
分業は正しい。
KPIは正しい。
社員の意思を聴くことも正しい。
赤字期に現金以外で報いるのも正しい。

それぞれが正しいのに、組み合わせと順序が悪いために、全体としては悪い方向へ一直線。
だからこそ当事者である経営層には、原因が見えてこないのです。

私が相談を受ける時点では、たいてい「制度を見直したい」という形で症状だけが持ち込まれます。


Will・Can・Mustは経営視点から設計すべき

このループを抜け出すためには、実は大掛かりな制度改革は要りません。

そもそもWill・Can・Mustが目指す効果を、個人起点で考えるのではなく、経営視点で設計すればよいのです。
その上で、自発性ある人材を採用しながら、ゆるやかにWill・Can・Mustの仕組みを導入していけばよいのです。

第一に、全社KPIに対する意識を高める

Salesforceが提唱した「The Model」には、すでに多くの反論があります。
その典型は、各部門が部門KPIだけを追ってしまう、というものです。
だからこそ、各部門のKPIに加えて、CRRやMRR、ARRといった全社KPIを常に示しつつ、それらへの貢献を促す取り組みが有効です。
そしてその対象は、まず各部門の責任者に他なりません。

第二に、前後工程部門との協調体制を促す

全社KPIを意識しても、前後工程とからめないのなら、閉塞感が高まります。
時に部門を超えた改善などが実現できるように、部門間交流の場を増やすことが重要です。
また、限定的な異動を実施することによって、部門を枠を超えた改善を促すことも可能となります。

第三に、採用の入口で自発性を確かめる。

赤字の状態で組織力を高めるには、ある程度「言われたことをきっちりする人」が必要です。
けれどもその先の成長に向けては、どうしても自発性が求められます。
そのために、全員ではなくとも、新規に採用する従業員の中の一定割合に、自発性を求めていきましょう。
そのための構造化面接手法などもぜひ検討してみてください。


Jカーブの谷は、人事施策の順序で深くも浅くもなる

冒頭の話に戻りましょう。

SaaSの赤字は、あらかじめ予定されたものです。だからこそ、その問題は谷が深いことではありません。谷から出るまでの時間が、予定より延びることです。

その延長要因を、多くの経営者は事業側に探します。
市場が想定より小さかった。
競合の価格攻勢を受けた。
プロダクトの改善が追いつかなかった。
どれもあり得ることです。

けれど、私が見てきたかぎり、原因が人事施策の側にある場面は少なくありません。

自発性の高い人から抜けていけば、獲得効率は落ちます。
希望に応えて配置を動かせば、分業の習熟は毎回リセットされます。
肩書で報いた分は、黒字化の局面で処遇要求として返ってきます。
どれもCRRとMRRを経由して、確実に損益に反映されてしまいます。

つまり人事施策は、Jカーブの形を強く影響するのです。それも、ほとんどの経営者が意識できないままで。

そして、その効き方を決めているのが順序です。

Will・Can・Mustは、自発性を生み出す装置ではなく、増幅器だ、と理解している人はどれくらいいるでしょう。
もとから自発性がある人に対しては有効に機能するのですが、自発性が少ない人にとっては面倒くさいだけの仕組みです。
協調のなかに動く余地を残すか。そのどちらかを整えてから、装置を回す。順序はそれだけです。

私はよく、設計はクールに、運用はホットにと申し上げています。
Will・Can・Mustは、運用のホットさそのものです。上司が真剣に耳を傾け、本人が言葉を探す。あの熱量には価値があります。

ただ、それを受け止める設計が、事前にクールに整っていなければ、熱量は空回りします。
誰が自発性を求められる立場なのか。どこまでなら動かせるのか。肩書には何が伴うのか。決めておけば済むことばかりです。

黒字化が見えてきた段階は、いちばん忙しい時期です。
だからこそ、人事の改革は後回しにされます。
そして後回しにした分だけ、谷は長くなります。

ぜひ気を付けてください。


参照した調査・研究

  • パーソル総合研究所「従業員のキャリア自律に関する定量調査」(2021年9月)
  • Humphrey, S. E., Nahrgang, J. D., & Morgeson, F. P. (2007). Integrating motivational, social, and contextual work design features. Journal of Applied Psychology, 92(5), 1332–1356.
  • Sackett, P. R., Zhang, C., Berry, C. M., & Lievens, F. (2022). Revisiting meta-analytic estimates of validity in personnel selection. Journal of Applied Psychology, 107(11), 2040–2068.
  • Greenberg, J., & Ornstein, S. (1983). High status job title as compensation for underpayment. Journal of Applied Psychology, 68(2), 285–297.

本稿でお伝えした「入口」「職務」「出口」の設計について、詳しくは以下のページをご覧ください。

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