離職率を半減させた、月例給与の大幅引き上げとレンジレート型賃金制度の設計
設立1950年代
従業員約880名(グループ)
売上非公開
提供サービス人事制度設計
実施期間5ヶ月
支援時期2023年~2024年
対象層・対象人数全社
事例サマリー
背景
関東地方に本社を置く、鉄鋼流通業(コイルセンター運営)を中核とする従業員800名規模の企業グループである。前フェーズにおいて、セレクションアンドバリエーションの支援により人事グランドデザインを策定し、人材ポートフォリオに基づく制度設計の方向性について経営層の合意を得ていた。
ただし、この時点で確定していたのは方向性のみである。レンジレートへ移行するという方針はあっても、等級ごとの上限・下限もレンジ内の昇給単位も存在しない。方向性の合意は、それ自体では従業員の給与を1円も変えない。
一方、賃金水準そのものに競争力の問題があった。外部労働市場との比較において、在籍者の月例給与も新卒初任給も相対的に劣後していた。期間限定の支援手当で若手層の処遇を補う運用が続いており、支給終了時に処遇が低下する構造も残っていた。
離職の増加は継続していた。若手層と中途入社層の定着を図るには、次年度期首までに新制度を稼働させる必要がある。設計に充てられる期間は実質4か月であった。
同グループは、既存領域の生産工程最適化、周辺領域でのビジネス拡大、新領域でのビジネス創出という3領域での成長戦略を掲げていた。この戦略を支える人材を確保するには、報酬水準の是正を先送りできない状況にあった。
課題(Before)
鉄鋼流通業(コイルセンター運営)を中核とする同グループが、詳細設計の開始時点で抱えていた課題は以下9点である。
1. 月例給与の水準が外部労働市場に対して劣後していた
在籍者の給与水準が同業種・同規模の相場を下回っており、採用時にも在籍時にも競争力を欠いていた。個別の手当で補う対応では、水準そのものの是正にならない。
2. 賃金テーブルの実体が存在しない
レンジレート(範囲給)への移行方針は決まっていたが、等級ごとの上限・下限も、レンジ内の昇給単位も未設定であった。方向性のままでは、従業員一人ひとりの給与を計算できない。
3. 水準引き上げに要する原資と適用範囲が未確定であった
引き上げの必要性は明らかであったが、対象範囲の線引きと原資規模の算定、次年度予算への反映が未了であった。ステークホルダーの調整を経なければ、水準そのものを決められない状態であった。
4. レンジ内の昇給ルールが存在しない
シングルレート(単一給)では昇格時にのみ昇給が発生していたため、同一等級内で処遇が変動する仕組みそのものがなかった。レンジレート化には、評価と昇給額を接続する新たなルールが必要であった。
5. 期間限定の支援手当が恒久的な処遇になっていない
若手層の処遇を補う手当が期間限定で支給されており、支給終了時点で処遇が実質的に低下する。定着を目的とした施策が、期限到来時にはむしろ離職の契機となりかねない構造であった。
6. 新卒初任給が市場水準に対して劣後していた
採用競争力の観点で見直しが必要であったが、在籍者の賃金カーブとの整合を取らずに初任給のみ引き上げれば、既存従業員との逆転が生じる。単独では動かせない論点であった。
7. 現行等級から新等級への移行ルールがない
現行の等級記号は生産職・事務職が別系統で並存し、職種の区分と等級の階層が混在していた。新等級へ機械的に読み替える方法が存在せず、移行時の不利益や逆転を回避する設計が必要であった。
8. 昇格判断が拠点ごとに完結し、基準が明文化されていない
一般社員層の昇格は原則として拠点内で完結する運用であり、判断基準も上位者の裁量に委ねられていた。グループ横断での公平性を担保できず、昇格の納得感が得られにくい構造であった。
9. 規程反映と従業員説明の設計が未着手であった
制度を設計しても、就業規則・賃金規程へ反映しなければ運用できない。加えて、水準引き上げと制度改定を一体で伝える説明資料と場の設計も残されていた。
目的と設計方針
鉄鋼流通業(コイルセンター運営)を中核とする同グループにおける本フェーズの目的は、月例給与の水準を市場に対して競争力のある位置まで引き上げ、その水準を維持・運用できる賃金構造をレンジレートとして実装することであった。
設計方針の第1は、報酬水準の引き上げを制度設計の完了を待たずに先行させることである。定着の悪化が進行している状況では、制度の完成を待つあいだの数か月が実害を生む。セレクションアンドバリエーションは、水準引き上げの緊急対応と詳細設計を二層で並走させる進め方を提案した。
第2に、引き上げを一時金や手当ではなく基本給で行う方針を採った。期間限定の支援手当は一律で廃止し、受給者は基本給へ組み入れ、非受給者には同等額を加算したうえで、さらに全社的なベースアップを重ねる構造である。
第3に、昇給を「見える」ものにすることを重視した。レンジ内の昇給額が評価によってどう変わるかを、従業員自身が事前に確認できる設計としている。
第4に、レンジ上限への到達による原資の硬直化を、設計段階で織り込んだ。水準を引き上げるほど上限到達者は早く増える。引き上げと同時に、その副作用への対処を組み込む必要があった。
第5に、職種を区分しつつ職種間で報酬水準に差を設けない方針を採った。職種の違いは行動評価の基準に反映させ、賃金レンジは共通とする構造である。
第6に、期間内に設計しきるため論点を絞り込んだ。人事システムの導入と教育制度の再設計は、次フェーズの課題として明示的に切り離している。
実際に構築した制度のポイント
鉄鋼流通業(コイルセンター運営)を中核とする同グループにおいて構築した制度は、以下の5領域で構成される。
【月例給与の引き上げ】
一般社員層・管理職層のいずれについても、月例給与を大幅に引き上げた。生産性や成果の向上を確認してから処遇を改善するのではなく、水準引き上げを先行させる判断である。
引き上げは基本給で行った。期間限定で支給していたキャリア支援手当は一律で廃止し、受給者についてはその額を基本給へ組み入れた。受給していなかった従業員には同等額を基本給へ加算し、そのうえで全社的なベースアップを上乗せしている。手当の有無による不公平を解消しつつ、全員の基本給水準を引き上げる構造である。
管理職層については、一般社員層を上回る引き上げ幅とした。時間外手当を含む一般社員層との処遇逆転を解消し、昇進が処遇上の魅力を持つ状態を回復させている。あわせて役職手当を加算する構造とし、役職に就くこと自体の処遇を明確にした。
新卒初任給は全学歴区分で一律に引き上げ、総合職・一般職の区分を廃止した。在籍者の賃金カーブとの整合を取ったうえで実施し、既存従業員との逆転が生じないことを確認している。
引き上げは前倒しでの人事考課実施により、制度改定と同時期に適用した。水準引き上げと制度改定を一体のものとして従業員へ伝える構成としている。
【レンジレートの設定】
賃金テーブルは、等級ごとに上限と下限を設定するレンジレート(範囲給)とし、レンジ内を号俸で階層分けした。号俸単位で昇給が発生するため、昇格しない年でも処遇が動く。
レンジの上限・下限は、等級に求める役割の水準と外部労働市場の相場の双方から設定した。隣接等級とのオーバーラップの程度も、昇格時の昇給感と社内公平性の両面から調整している。
レンジ内の昇給には、一定額を境に評価別の昇給額が変わるマトリクス昇給を採用した。レンジ下位では昇給幅が大きく、上位に近づくほど小さくなる。若手層の処遇改善を厚くしつつ、レンジ上限への到達を抑制する設計である。最下位等級についてはマトリクス昇給を適用せず、一律の昇給とした。
昇格時の昇給額については、下位等級でレンジ上限に近い場合の調整ルールを設けた。機械的な計算では昇格による昇給が目減りするケースが生じるため、上位者の推薦と最終承認の段階で調整する運用としている。
昇給シミュレーションを作成し、標準的な評価を得た従業員と高い評価を得た従業員のそれぞれについて、年間昇給額の見通しを提示した。標準的な評価であっても確実に昇給し、高い評価であればその倍近い昇給となる設計であることを、数値で確認している。
管理職層については年俸管理とし、一般社員層とは異なる管理方式を採用した。
【等級制度】
管理職層を4等級、一般社員層を4等級とし、一般社員層についてはエンジニア、アウトサイドセールス、インサイドセールス、コンサルタントの4職種区分を設けた。職種区分は行動評価の基準に反映されるが、賃金レンジには差を設けていない。
管理職層では、組織マネジメントを担う区分とプロジェクトマネジメントを担う区分を統合した。組織業績に対する責任の所在を等級定義上で明確化し、報酬にも反映させている。
役職については、対応する等級を定めたうえで役職手当を加算する構造とした。等級と役職を分離することで、組織体制の変更に制度が追随できる設計としている。
【評価と処遇の接続】
評価は業績評価と成長評価の二軸で構成した。業績評価は個人目標に基づく達成度評価、成長評価はコンピテンシーに基づく行動評価である。
給与改定には両方の評価を用い、それぞれにウェイトをかけて点数化したうえで、5段階の評語に基づき昇給号俸を決定する構造とした。賞与には業績評価のみを反映し、成長評価は接続していない。昇格には業績評価の一定水準超過を前提条件とし、成長評価に基づき上位者が推薦する。
コンピテンシーディクショナリは、管理職向け、一般社員共通、職種別の3層で整備した。成長評価は本人がプレゼンテーション形式で発表し、この基準に照らして採点する方式としている。
一般社員層の賞与は、一律分、業績評価に応じた可変部分、拠点責任者の判断で配分する経営参画・貢献分の3層で構成した。可変部分は絶対評価で決定され、評価と支給水準の対応をあらかじめ明示している。
昇格は、レポート提出、拠点内でのプレゼンテーション、面接を経て、人事考課委員会および役員による審査、拠点責任者の最終承認という手続きを定めた。全項目が基準を満たさなくとも、突出した専門性や卓越した行動があれば昇格可能とする例外条項も明文化している。
【移行と浸透】
現行等級から新等級への移行は、職種ごとの読み替えルールを定めたうえで、給与移行シミュレーションを実施して個別の影響を検証した。移行時に不利益や逆転が生じないことを、全対象者について事前に確認している。
水準引き上げに要する原資については、対象範囲別に試算を行い、次年度予算への反映とステークホルダーの調整を経て確定させた。中核事業以外の職種への反映額についても、別途整理とシミュレーションを実施している。
設計した制度は就業規則・賃金規程へ反映し、規程レベルで運用可能な状態まで仕上げた。あわせて全従業員向けの説明会資料を作成している。
導入後の変化
賃金決定方式はシングルレートから号俸制のレンジレートへ全面移行し、昇格しない年でも評価に応じて昇給が発生する構造となった。等級と職種の2軸で報酬が決まる仕組みとなり、従来より早期の昇給・昇格が可能となっている。
定着面では明確な改善が確認されている。離職率はピーク時の約半分となる5%未満まで低下した。これに伴い、長らく減少傾向にあったグループ全体の従業員数が増加へ転じている。
要因としては、中途入社人材の採用強化と、その定着を可能にする労働環境の整備が挙げられている。生え抜き中心の構成から多様な経歴を持つ人材が加わる構成への転換が進み、新領域への展開に必要な人材基盤の形成が始まっている。
事業面では、人事制度改革を含む一連の取り組みを背景に、同年度は増収増益を達成している。報酬水準の引き上げを先行投資として実行した判断が、業績面でも裏づけられた形である。
本プロジェクトの特徴
1. 生産性の向上に先んじて月例給与を引き上げた
報酬水準の引き上げは、通常は生産性向上や業績改善の成果として位置づけられる。本案件では順序を逆にし、水準引き上げを先行させた。定着が悪化している局面では、成果を待って処遇を改善する順序では人材が先に流出するためである。投資としての報酬引き上げという性格を、経営層と共有したうえで実行した。
2. 引き上げを手当ではなく基本給で行った
処遇改善は、手当の新設や一時金の支給で実施されることが多い。本案件では期間限定の支援手当を一律で廃止し、基本給へ組み入れたうえでベースアップを重ねた。期限のある支給は期限到来時に必ず処遇低下として体験されるためである。定着を目的とするなら、施策は一時的な上乗せではなく恒久的な構造として組まれなければならない。
3. 引き上げと同時に、レンジ上限への到達対策を組み込んだ
水準を引き上げるほどレンジ上限への到達者は早く増え、昇給原資が硬直化する。本案件では引き上げと同時にマトリクス昇給を導入し、レンジ下位に原資を厚く配分した。副作用への対処を後回しにせず、引き上げの設計と一体で組み込む判断である。
4. 新卒初任給と在籍者の水準を同時に動かした
初任給の引き上げは採用競争力の観点から単独で実施されがちである。本案件では在籍者の賃金カーブと同時に設計した。初任給のみを引き上げれば既存従業員との逆転が生じ、定着の観点では逆効果になるためである。
5. 職種を区分しながら、職種間の報酬差を設けなかった
職種別の等級を設ける場合、市場価値に応じて職種間で賃金水準に差をつける設計が一般的である。本案件では職種区分を行動評価の基準にのみ反映させ、賃金レンジは共通とした。職種間の異動が事業拡張の前提となるため、処遇差が異動の障壁になることを避ける判断である。
6. 昇給の見通しを数値で提示してから決裁を求めた
制度設計の決裁は、構造の説明によって求められることが多い。本案件では標準者と優秀者それぞれの年間昇給額をシミュレーションし、数値で提示したうえで判断を仰いだ。レンジレートは構造の説明だけでは効果を実感しにくく、原資への影響も見えないためである。
7. 評価を二軸に分離し、用途別に接続した
評価結果を一つの点数へ統合すれば運用は簡素になる。本案件では業績評価と成長評価を分離し、給与改定には両方、賞与には業績評価のみ、昇格には業績評価を前提条件として成長評価で判断、という接続とした。何を評価されて何が変わるのかを、従業員が用途ごとに理解できる構造を優先した。
8. 移行時の不利益がないことを全員分検証した
移行設計は代表的なケースの試算で済ませることも可能である。本案件では全対象者について給与移行シミュレーションを実施し、不利益や逆転が一件も生じないことを確認した。水準引き上げを伴う改定であっても、個別に見れば不利益が生じる可能性は残るためである。
9. 次フェーズへ送る論点を明示的に切り離した
4か月という設計期間に対し、人事システムの導入と教育制度の再設計は同時に扱えば必ず遅延を招く論点であった。本案件ではこれらを次フェーズの課題として提案時点で明示し、設計範囲から外した。期限内に稼働させることを最優先とし、範囲を守ることで期限を守る進め方を採っている。
担当コンサルタント: 平康 慶浩 、 塚越 真悠子 、 岡安 楓 、 佐藤 宏紀
このフェーズで最も判断を要したのは、生産性の向上を待たずに月例給与を引き上げることの是非でした。順序としては逆であり、原資の負担も小さくありません。ただ、定着が悪化している局面で成果を待てば、改善が実現する前に人材が流出してしまいます。投資としての引き上げであることを数値でお示ししたうえで、先行実施のご判断をいただきました。
よくあるご質問
A. 定着が悪化している局面では、先行させる判断があり得る。成果を待って処遇を改善する順序では、改善が実現する前に人材が流出するためである。本事例では生産性や成果の向上に先んじて一般社員層・管理職層の月例給与を大幅に引き上げ、翌年度に離職率はピーク時の約半分となる5%未満まで低下した。同年度は増収増益も達成している。
Q. 処遇改善は、手当と基本給のどちらで行うべきか。
A. 定着を目的とするなら基本給で行うべきである。手当は導入が容易で原資の調整もしやすいが、期限を設ければ終了時に処遇低下として体験され、恒久化すれば基本給と変わらないまま賃金体系を複雑にする。本事例では期間限定の支援手当を一律で廃止し、受給者は基本給へ組み入れ、非受給者には同等額を加算したうえで、さらに全社的なベースアップを重ねた。
Q. レンジレート型の賃金テーブルは、どのように設計すればよいか。
A. 等級ごとの上限・下限を定め、レンジ内を号俸で階層分けするのが基本形である。上限と下限は、等級に求める役割の水準と外部労働市場の相場から算出し、隣接等級との重なりをどの程度持たせるかを併せて決める。本事例では号俸単位で昇給が発生する構造とし、昇格しない年でも評価に応じて処遇が動く仕組みとした。
Q. レンジレートに移行すると、上限到達者が増えて昇給原資が硬直化しないか。
A. 対策を設計に組み込めば回避できる。有効なのは、レンジ内の位置と評価の組み合わせで昇給額を決めるマトリクス昇給である。レンジ下位では昇給額を大きく、上位に近づくほど小さく設定することで、上限到達の速度を抑制しながら若手層の処遇を厚くできる。本事例では最下位等級を除く全等級にこの方式を適用した。
Q. 職種別の等級を設けた場合、職種間で報酬水準に差をつけるべきか。
A. 職種間の異動を前提とするかどうかで判断が分かれる。市場価値に応じて差をつけるほうが採用競争力の面では合理的だが、処遇差は異動の障壁になる。本事例では、事業拡張のために職種間の人材流動性を確保する必要があったため、職種区分は行動評価の基準にのみ反映させ、賃金レンジは共通とする設計を採用した。
Q. 賃金制度の改定で、移行時の不利益をどう防ぐか。
A. 全対象者について給与移行シミュレーションを実施し、個別に検証することが唯一の方法である。代表的なケースの試算では、例外的な処遇にある従業員の不利益を見落とす。水準の引き上げを伴う改定であっても、手当の廃止や賃金体系の組み替えによって個別には減額が生じる可能性が残るためである。本事例では全対象者を検証し、不利益と逆転が生じないことを確認したうえで移行した。