定量分析と組織風土診断で課題を構造化した人事グランドデザインの策定
設立1940年代
従業員約230名
売上約100億円
提供サービス人事戦略策定
実施期間19ヶ月
支援時期2021年~2022年
対象層・対象人数全社
事例サマリー
背景
関東地方に本社を置く医学・看護分野の専門出版社である同社は、専門書・専門誌の出版を主力としながら、電子コンテンツと法人向けサービスへの事業比重を高める段階にあった。紙の出版市場が縮小し電子出版市場が拡大するなかで、情報の入手手段そのものが検索・データベース・動画へ広がり、既存の商品構成だけでは読者接点を維持しにくくなっていた。
医療領域の環境変化も重なった。高齢化の進行によって医療ニーズは多様化し、在宅医療や地域医療の比重が増す一方で、医療従事者の職種構成も変化していた。読者である医療従事者の課題が変われば、専門出版社が提供すべき情報の形も変わる。
同社は経営の中期計画として、全社的なデジタル強化、各事業の将来計画策定、新規事業の企画・育成の3点を掲げていた。この3点を人事の言葉に翻訳すると、デジタル人材の育成、経営企画機能とマネジメント機能の拡大、新規事業を生む行動と組織風土への転換という課題になる。
課題は認識されていたが、個々の解決策は互いに干渉する関係にあった。採用を新卒中心とするか中途を厚くするか、等級を能力で測るか成果で測るか、報酬を社内水準に合わせるか職種水準に合わせるか。どれか1つを先に決めると、他の判断が制約される。この構造が、着手を難しくしていた。
課題(Before)
支援当時 従業員約230名の同社において、各種分析から確認された課題は次のとおりである。
1.人事施策が個別に検討され、全体を貫く方針がなかった。採用・配置・評価・報酬・育成の各論はそれぞれ検討されていたが、優先順位を決める基準が存在せず、施策どうしが干渉したまま停滞していた。
2.求める人材像が定義されていなかった。人材像は採用基準・評価基準・昇進基準・教育内容のすべての起点になる。起点がないため、各制度の判断が担当者の解釈に委ねられていた。
3.管理職の職務内容と登用基準が不明確だった。何を期待されているかが管理職本人にも周囲にも共有されず、登用の理由も説明されないため、昇進・昇格の公平さに対する納得度が全項目のなかでも低い水準にあった。
4.キャリアの選択肢が管理職への昇進に事実上限られていた。専門性を高めた人材が到達点を持てず、経験を積んだ層の責任付与とモチベーション維持の手段が不足していた。
5.賃金が年功的に上昇する構造だった。役職に就かない場合でも年収は上がり続け、時間外労働手当と賞与の影響で管理職と一般社員の年収帯が一部重複していた。管理職に就くことの経済的な意味が弱まっていた。
6.人員構成が高齢層に偏っていた。40歳から54歳が全体の55.4%を占め、採用を行わない前提での動態予測では、10年後に50歳以上が全体の60%を超える見通しだった。勤続5年以下は13%にとどまり、知識と技術の承継が構造的に難しくなっていた。
7.44歳以下の管理職が少なく、管理職に占める勤続16年以上の社員が74%を占めていた。外部環境の変化に対応する視点を、内部の長期勤続層だけで賄う状態になっていた。
8.教育がOJTと入社初期のフォローアップに偏り、階層別の体系が整っていなかった。組織風土診断では教育訓練が最も満足度の低い領域であり、能力開発への努力に対する評価はとくに低かった。
9.情報共有とノウハウの標準化が進んでいなかった。成功事例・失敗事例が個人と部署に留まり、業務が属人化していた。責任範囲の不明確さと変更連絡の不徹底も、同じ縦割り構造から生じていた。
10.経営理念と方針の浸透が不十分だった。事業の社会的意義への満足度は高く、報酬水準への満足度も高い一方で、理念や方針が伝わっている実感は乏しく、業績悪化に対する危機感も全社的に共有されていなかった。
目的と設計方針
同社に対し、セレクションアンドバリエーションが設定した目的は、個別制度の改定ではなく、経営課題と従業員のキャリアの双方を同時に満たす全体方針を先に確定することであった。人事のグランドデザインとは、求める人材像を定め、どう採用し、どう育成し、どう活躍してもらうかを一本の線でつなぐ設計図である。
設計方針は3点である。
1.決め打ちの施策から入らない。何をどの順で変えるかは、経営の視点(成長のために期待する職責)と従業員の視点(働く個人のキャリア)を突き合わせたうえで決める。
2.方針の根拠を分析で担保する。財務分析、賃金分析、人員動態分析、組織風土診断、経営層とキーパーソンへのインタビュー、マネジメントアセスメントを組み合わせ、定量と定性の双方から課題を裏づける。
3.全体方針を人事フレームの6領域(採用・教育・評価・報酬および表彰・異動および登用・代謝)に落とし込む。方針が抽象論に留まらず、各領域の具体的な検討課題として引き渡される状態を作る。
分析の設計にあたっては、満足度だけを測らないことを重視した。従業員がそもそも重視していない項目の満足度を上げても、投じた資源は成果に結びつかない。重要度と満足度の2軸で測ることで、限られた経営資源の投下順序を判断できる状態にした。
実際に構築した制度のポイント
求める人材像を起点として確定した人事グランドデザインの骨格は、次のとおりである。
1.全社共通の求める人材像を3つの類型で定義した。医学医療と出版業界の環境を把握し読者と著者のニーズを橋渡しできる人材、理念と事業計画の達成に向けて自ら考えて行動し期待以上の成果を出せる人材、他者の意見を聴き自らの意見も示しながら連携して業務を進められる人材の3つである。経営層の意向、キーパーソンインタビュー、社員マトリクス、目指すべきキャリアパスの4つの経路から要素を抽出して統合した。
2.求める人材像を人事フレームの6領域に接続した。採用では選考基準と訴求メッセージへ、教育では階層別・部署別の体系へ、評価では基準とフィードバックへ、報酬では表彰と処遇への連動へ、異動登用では昇進基準へ、代謝では定年後の期待役割へ、それぞれ落とし込む構造とした。
3.複線型のキャリアを設計方針に据えた。管理職への昇進のみを到達点とせず、専門性と経験を活かして活躍するプロフェッショナルキャリアを併置する。等級の縦軸(成長段階)と横軸(部署間の異動)の両方を検討対象とし、一定の経験を積んだ層に責任を付与する経路を確保した。
4.管理職の役割を機能ごとに再定義した。編集・制作・販売・管理の各機能で求めるマネジメント行動は異なる。目的、責任、業務の内容と範囲、必要なスキルを機能別に明示し、昇進基準と職務内容を対応させた。
5.登用の判断に客観的な材料を組み込んだ。多面評価形式のマネジメントアセスメント、人事考課、外部研修でのアセスメント結果を定量側の材料とし、役員および関係部署の部課長へのヒアリングを定性側の材料とする。課長への登用と部長への登用で材料の組み合わせを変える設計とした。
6.階層別の連続型研修を教育体系の中心に置いた。単発の研修ではなく、若手層、管理職候補層、管理職層のそれぞれに連続した研修を設計する。管理職層では部署課題の施策化とマネジメント能力の向上を主題とし、管理職間のコミュニケーションを通じて部署を超えた組織力の向上を促す構成とした。
7.60歳以降の処遇を組織設計の一部として扱った。雇用延長にともなう人件費と退職金の増加、新陳代謝の停滞を将来の問題として特定し、60歳以降の職務内容と支給基準の見直し、定年再雇用制度の仕組み化、それらを織り込んだ人員計画の設計を課題として設定した。
8.金銭報酬と非金銭報酬を段階的に接続する方針とした。市場水準を上回る報酬によって安心が担保されている状態を前提に、評価結果と連動する一時金から着手し、賞与、基本給へと反映範囲を段階的に広げる。同時に、挑戦志向を促す非金銭報酬の拡充を並行させる構成とした。
9.採用基準を目的から分解した。即戦力採用、知識採用、ポテンシャル採用のいずれを行うのかを先に決め、必須要件と十分要件を分離し、優秀者が発揮しているコンピテンシー項目を選考の評価基準として設定する手順とした。
【移行と浸透】
10.役員層ミーティングと事務局ミーティングを反復する進め方をとった。グランドデザインは役員層への報告で完成させ、その後の詳細検討は事務局との定例ミーティングで積み上げた。第2フェイズでは検討回数を重ね、求める人材像の設定と各施策の具体化を段階的に進めた。
11.施策の実行順序を緊急度と予算規模の2軸で整理した。教育・採用・置き換え・退出といったリソースマネジメントの手段と、金銭報酬・安心維持・内発動機・本能刺激といったモチベーションマネジメントの手段を同じ平面に置き、どれか1つを選ぶのではなく、実行可能なものから同時に進める方針とした。
12.マネジメントアセスメントの結果を、制度の完成を待たずに昇格判断の材料として先行活用する方針を置いた。制度全体の設計には時間がかかる。設計期間中も人事の意思決定は発生するため、先に使える材料から現場の判断に接続した。
導入後の変化
1.方針が個別施策の検討に引き継がれた。2022年には求める人材像の全社共通定義が確定し、教育体系の設計、育成方針とキャリアモデルの検討、登用ルールと異動ルールの整備、非金銭報酬の検討、60歳以降のキャリアと処遇の検討が、それぞれ独立した検討項目として立ち上がった。グランドデザインで優先順位の基準を先に定めていたため、施策ごとに方針の議論へ立ち戻る必要がなかった。
2.組織規模が維持されている。従業員数は233名(2021年4月時点)から234名(2025年4月時点)へと、ほぼ横ばいで推移している。支援時の人員動態分析では、採用を行わない前提で10年後に211名へ減少する見通しが示されていた。規模の維持は、採用を継続する判断が続いていることを示している。
3.新卒採用と経験者採用がいずれも継続している。2026年3月時点で2027年度の新卒採用募集が実施され、経験者採用の募集職種には企画・編集・制作とあわせて電子出版が含まれている。デジタル領域の人材を外部から確保する経路が、採用の側で維持されている。
4.デジタル領域の事業が具体化した。2026年4月、蓄積してきた書籍・雑誌・臨床支援記事を横断して検索・閲覧できる医師向けの医療情報プラットフォームサービスが開始されている。支援当時に中期計画へ掲げられていた全社的なデジタル強化と新規事業の育成は、事業として形になっている。
5.報酬水準の優位性が維持されている。支援当時の分析では、市場平均を上回る報酬水準が従業員の安心を担保している状態が確認されていた。新卒初任給として公開されている水準は、その後も市場を上回る位置にある。安心の側の条件を維持したまま、挑戦を促す仕組みを重ねるという設計方針の前提が、現在も成立している。
人事のグランドデザインは、策定した時点では1枚の設計図にすぎない。価値が生じるのは、その後の個別施策がその設計図を参照し続けたときである。セレクションアンドバリエーションが同社と策定した方針は、求める人材像の設定、教育体系、登用と異動のルール、シニア層の処遇という順に具体化され、事業のデジタル転換と並走している。
本プロジェクトの特徴
本案件で最初に確認したのは、人事が企業価値のどこに効くのかという点である。専門出版業において企業価値の源泉は、専門領域の知見と著者・読者との関係にある。これらは個人に蓄積され、組織に移りにくい。事業がデジタルへ移るとき、必要な人材が社内から供給できなければ、外部調達に依存し、そのたびに既存の知見との接続を作り直すことになる。人事が担うべき貢献は、事業転換を担う人材を社内から供給できる状態を作ることだと定義した。
そのうえで、本案件では等級制度や報酬制度の改定から着手しないという判断をとった。順序としては、求める人材像の定義、育成と登用の基準の明確化、教育体系の整備を先に置き、報酬への反映は段階的に接続する構成とした。制度の器を先に作らず、器に入れる人材要件から先に定めた。
この判断の根拠は3つある。
1.報酬に対する満足度が高い状態にあったこと。組織風土診断では、同業他社との比較でも仕事と報酬のバランスでも高い満足度が確認されていた。満足度が高い領域を先に動かすと、得られる改善幅に対して失う納得感が大きい。
2.不満が集中していたのが、報酬の額ではなく決まり方であったこと。昇進・昇格の公平さ、責任の明確化、教育機会、情報共有といった項目に不満が集まっていた。これらはいずれも、報酬テーブルの設計ではなく、期待の明示と判断基準の可視化によって解決する領域である。
3.人員構成の時間的な制約があったこと。40歳から54歳が過半を占め、勤続5年以下が13%という構成では、承継のための時間は限られている。等級と報酬の再設計に検討期間を費やすより、育成と登用の基準を先に動かすほうが、残された時間の使い方として合理的だと判断した。
一般的な人事制度改革では、等級・評価・報酬の3点セットを同時に設計する進め方が広く採られている。本案件でその型を採らなかったのは、同社の課題が制度の不備ではなく、方針の不在にあったためである。
担当コンサルタント: 松木 宏晃
このプロジェクトで最も判断を要したのは、着手する順番でした。ご相談の時点で、経営課題も人事課題も整理されていました。それでも制度の設計から入らなかったのは、報酬への満足度が高い会社で報酬から動かすと、失うものが大きいと考えたからです。分析結果をお示しし、何を先にやるかを役員の皆様に議論していただく。この時間を確保できたことが、その後の施策を進めやすくしたと考えています。
よくあるご質問
A1. 複数の人事課題を同時に抱えている場合は、先に策定する意味が大きい。採用・等級・評価・報酬・育成の解決策は互いに干渉し、どれか1つを先に決めると他の選択肢が制約されるためである。グランドデザインは、各領域の施策を決める前に、判断の順序と優先度の基準を確定する作業にあたる。本事例では、財務・賃金・人員の定量分析と組織風土診断、経営層インタビューを根拠として全体方針を先に固め、その後の個別検討を方針に接続した。
Q2. なぜ等級制度や報酬制度の改定から着手せず、求める人材像の設定を先に行ったのか。
A2. 報酬への満足度が高く、不満が報酬の額ではなく決まり方に集中していたためである。この状態で報酬テーブルから手を付けると、改善幅に対して失う納得感が大きくなる。期待の明示と判断基準の可視化で解決する課題は、等級・報酬の設計ではなく、人材要件と登用基準の側にある。本事例では、求める人材像を全社共通で定義したうえで、育成方針、登用ルール、教育体系の順に具体化し、報酬への反映は段階的に接続する構成とした。
Q3. 従業員が報酬や労働環境に満足している会社でも、人事改革は必要なのか。
A3. 必要になる場合がある。満足度の高さは現在の処遇に対する評価であり、事業環境の変化に組織が対応できるかどうかとは別の問題だからである。処遇に満足しているために危機感が共有されず、変化への対応が遅れる構図は珍しくない。本事例でも、報酬と職務への満足度が高い一方で、理念や方針の浸透、情報共有、教育機会には不満が集中しており、改革の主題はそちら側に置いた。
Q4. 事業のデジタル化に必要な人材は、採用と育成のどちらで確保すべきか。
A4. どちらか一方では足りず、両方を同時に走らせる必要がある。外部採用は必要な技能を短期間で確保できるが、既存事業の知見との接続に時間がかかる。内部育成は接続の問題が起きにくいが、必要な人数と水準に達するまでに年数を要する。本事例では、採用基準の明確化と階層別の教育体系整備を並行して方針化し、加えて優秀者の部署間異動によって幅広い見識を獲得させる経路も設計に含めた。
Q5. 組織風土診断(エンゲージメントサーベイ)の結果は、人事制度の設計にどう使えるのか。
A5. 施策の優先順位を決める材料として使える。満足度だけを測ると、従業員がそもそも重視していない項目に資源を投じてしまう恐れがある。重要度と満足度の2軸で測れば、重要度が高く満足度が低い領域を緊急対応、重要度が高く満足度も高い領域を維持対象として区別できる。本事例では、この区分によって、報酬領域を維持対象、組織管理と人的資本と教育訓練を優先対応領域と判断した。
Q6. 人事のグランドデザインは、何年くらいで見直す必要があるのか。
A6. 一般的には、等級や報酬の骨格は5年から10年の耐用年数を持たせて設計する。ただし見直しの必要性は経過年数ではなく、前提が変わったかどうかで判断すべきである。事業構成、人員構成、外部労働市場のいずれかが設計時の想定から外れた時点が、見直しの時期にあたる。本事例では、2021年に策定した方針が、事業のデジタル領域への拡張という前提変化を織り込んで設計されていたため、その後の個別施策の検討においても参照され続けている。