キャリアの納得感を可視化し、中堅層の活力を引き出す– 高スコア組織における「見えない課題」へのアプローチ –
設立1910年代
従業員約82,500名(連結)
売上約7兆3,000億円
提供サービスキャリアエンゲージメント調査・分析
実施期間4か月
支援時期2023年~2024年
対象層・対象人数全社
事例サマリー
背景
関東地方に本社を置く総合商社の、生活関連事業を担う2つの事業本部が対象である。同社は年功ではなく職務の大きさに基づく等級制度への転換、相対評価から絶対評価への切り替え、コース別人事管理の撤廃(職掌一本化)を、支援に先立つ時期に完了させていた。
制度基盤の整備が進んだ結果、報酬水準・抜擢機会・働きやすさのいずれも高い水準にあり、既存のエンゲージメントサーベイの総合スコアも悪い数値ではなかった。ストレスチェックにも大きな問題はなく、職場推奨度は改善傾向にあった。
一方で、対象2本部には「全社的には高スコアだが、その中で相対的に低い層が存在する」という認識があった。標準的な改善手法は、スコアが低い項目を特定して直すことである。しかし低い項目が見当たらない組織では、この手法そのものが機能しない。
課題(Before)
対象2本部が直面していたのは、悪い数値がないがゆえに打ち手が導けないという構造的な行き詰まりである。論点は次の8点であった。
1.エンゲージメントサーベイの総合スコアが低くないため、改善対象を特定できない。悪化しているKPIを洗い出して個別に手を打つという標準手順が、そもそも起動しない。
2.既存サーベイの設問が、会社に対する評価を問う形式で構成されている。回答者が何を期待して、その期待とのどのようなギャップを感じているのかが読み取れない。
3.既存サーベイからは個人単位のデータを入手できない。属性を掛け合わせた深掘りができず、集団としての平均値しか見えない。
4.人事制度の全面改定を終えた直後であり、制度が個人のキャリア観に与えた影響が測定されていない。制度は運用されているが、受け止め方の分布が把握できていない。
5.職掌一本化によって、旧一般職層のキャリア観が変化していた。同時に、旧一般職が担っていた業務の振り分け先が定まらず、担当の重複と空白が並存していた。
6.低い等級層ほど、ロールモデルを社内ではなく社外に求める傾向があった。目指す先が組織内に見えない状態は、昇格意欲と定着意思の両方を弱める。
7.キャリア志向が読み取れない層が一定規模で存在していた。成長意欲も離職リスクも見えないため、支援策の設計対象として扱えない。
8.所属部門ごとに課題の傾向が異なっていた。本部として打つ共通施策と、部に委ねる施策の切り分けができていない。
目的と設計方針
同社に対し、セレクションアンドバリエーションが設定した目的は、エンゲージメントスコアそのものを引き上げることではない。働きがいの中身を分解し、一人ひとりのキャリアに対する納得感がどこで途切れているのかを可視化することである。
設計方針の中核は、比較対象の置き換えにある。満足と不満は絶対水準ではなく、何と比べるかによって生じる。報酬水準が高く抜擢も進んだ組織では、他社との比較情報は行動を変えない。したがって、比較の基準を他社ではなく、回答者自身が日常的に比べている相手に置いた。
具体的には、上司・先輩・同僚・後輩といった周囲3メートルの人間関係、選択できたはずの別の未来、会社と担当事業の将来性、そして自分自身の将来性を、それぞれ独立した比較軸として設問化した。
さらに、キャリアを4つの領域に分けて捉えるフレームワークを設定した。過去の選択と意思決定に関わる形成過程、現状の満足度に関わる活躍過程、世帯状況と生活水準に関わる生活要素、業界と会社の先行き予測に関わる将来期待の4領域である。既存サーベイ結果との相関から仮説を立て、それぞれの領域に設問を配分した。
実際に構築した制度のポイント
本調査で構築した設問体系は、キャリア形成論の定石を意図的に反転させたものである。骨格は次の7点である。
1.比較対象を問う設問群を置いた。主体的なキャリアを考えることを促すのではなく、実際には誰と比べてしまっているのかを確認する設問とした。
2.偶然と曖昧さを問う設問群を置いた。キャリア計画を定めることを促すのではなく、計画していなかった転機や、いまだに定まらない領域を確認する設問とした。
3.不安を問う設問群を置いた。前向きに考えることを促すのではなく、ネガティブな要素である不安の所在を確認する設問とした。
4.既存の組織エンゲージメントサーベイ結果を再分析し、そこから導いた仮説を新設問に反映した。個人データが入手できないため、集団特性からの相関推測という形で接続した。
5.WEBアンケートによる全数調査を実施した。設問設計に約1か月、調査実施に1週間から2週間、分析に約1か月、対応案検討に約1か月という4段階で構成した。
6.クラスター分析により、回答者を5つの人材タイプに分類した。うち、キャリア志向が明確でない中庸層が約3割を占めることが判明した。この層は、既存のどの属性区分でも抽出できない集団である。
7.等級別・所属別・人材タイプ別の3軸で課題を整理し、6つの対応案に接続した。キャリア閉塞感の解消、キャリアチャンスの確保、ロールモデル検討と管理職活性化、メンター制度の拡大適用、職掌一本化への個別対応、キャリア志向の醸成と肯定的なキャリアプラトーの設定である。
【移行と浸透】
本部として打ち出す施策と、部に委ねる施策を分けて提示した。制度そのものを改定しないことを前提としたため、施策は既存の制度運用の枠内で実行できる形に収めている。分析と論点整理はコンサルタント側が担い、対象本部のプロジェクトメンバーには隔週の検討会議での議論と社内調整を担っていただく進め方とした。
導入後の変化
1.対象組織の枠組みそのものが変わった。同社は2024年4月に事業部門・本部・部という組織単位を廃止し、戦略単位ごとのビジネスユニット制へ移行している。調査対象だった2本部のうち一方はビジネスユニットへ改称され、他方は3つのビジネスユニットに再編された。所属を軸にした課題整理は、この時点で参照先を失う。一方で、等級と人材タイプを軸にした整理は、組織単位の変更を受けない。
2.人事制度の骨格は維持されている。職務の大きさに基づく等級制度、絶対評価、コース別人事管理の撤廃という3つの改定は、同社が公開する人的資本情報において継続が確認できる。等級区分の呼称も、採用情報において同一の体系で公開されている。調査が前提とした制度環境は、その後も変わっていない。
3.人と組織の課題が、経営計画の重点要素として掲げられた。同社が2024年に発表した中期経営計画では、社員一人ひとりが力を発揮できる状態をつくることが重点要素の1つに位置づけられている。調査が扱ったキャリアの納得感は、この文脈に直接接続する論点である。
4.対象事業の1つが成長領域として位置づけ直された。ヘルスケア領域は、同社が2024年に発行した統合報告書において、新たな領域で競争優位を構築する取り組みとして紹介されている。当該ビジネスユニットでは、出向を通じた人材育成の考え方が自社オウンドメディアで公開されている。組織単位が変わった後も、人材育成が事業戦略の一部として扱われ続けていることが確認できる。
調査は、組織の枠組みが変わっても残る軸で設計されているかどうかで価値が決まる。セレクションアンドバリエーションが設定した人材タイプと等級という2つの軸は、所属という枠組みが失われた後も、対象を指し示す機能を失わない。
本プロジェクトの特徴
本案件で採った判断は、いずれも標準的な進め方から意図的に外したものである。
1.一般には、サーベイのスコアが低い項目を特定し、そこを改善する。本案件では、低い項目を起点にしなかった。対象組織のスコアは総じて高く、低い項目を直しても全体の振れ幅が小さいためである。動く余地があるのは平均値ではなく、平均に埋もれた分布の側にある。
2.一般には、他社ベンチマークとの比較で自社の位置を測る。本案件では、比較の基準を回答者自身が日常的に比べている相手に置いた。満足と不満は絶対水準ではなく比較対象によって生じるため、報酬も昇格機会も他社を上回る組織では、他社比較の情報が行動を変えないからである。
3.一般には、キャリア関連の設問は主体性・計画性・前向きさを問う。本案件では、その3つを反転させた。望ましい姿を問えば望ましい答えが返り、打ち手の手がかりが得られない。誰と比べてしまうか、計画していなかった偶然は何か、何が不安かを問うことでのみ、介入できる論点が浮かび上がる。
4.一般には、調査結果は所属部門別に整理される。本案件では、所属別に加えてクラスター分析による人材タイプ別の整理を行った。所属別の課題は部門固有の事情に帰着しやすく、本部として打てる共通施策が導けないためである。結果として、既存のどの属性区分にも該当しない中庸層が、約3割という規模で可視化された。
5.一般には、調査の次工程は制度改定である。本案件では、制度を改定しないことを前提に打ち手を組んだ。等級・評価・職掌の全面改定を終えた直後であり、再改定は現場に新たな適応負荷を課すだけだと判断したためである。制度を変えずに納得感を動かす手段として、キャリア支援・周囲との関係性・働き方の3領域に施策を配置した。
6.一般には、メンター制度は若手向けの施策として設計される。本案件では、昇格の天井を意識し始める層への拡大を提案した。キャリアプラトーが生じるのは若手ではなく、その層だからである。
この案件で最も判断を要したのは、スコアの低い項目を改善対象にしない、と決めたことです。高いエンゲージメントを保つ組織では、低い項目を直しても全体はほとんど動きません。動くのは、一人ひとりが誰と自分を比べているかという、本人にしか見えない基準のほうです。そこへ踏み込む設問をつくるために、キャリア論の定石をあえて裏返しました。
よくあるご質問
比較の基準を、他社から個人へ切り替えることである。エンゲージメント向上の標準手順は、悪化している項目を特定して改善することだが、報酬水準も抜擢機会も働きやすさも確保された組織では、悪化している項目自体が見当たらない。この段階で有効なのは、平均値ではなく分布に着目し、一人ひとりが何と自分を比較して満足度を測っているかを確認することである。本事例では、周囲の人間関係、選択できたはずの別の未来、会社と事業の将来性、自分自身の将来性を独立した比較軸として設問化した。
Q2. なぜ人事制度の再改定ではなく、キャリア視点の調査を先に行ったのか
制度改定の直後だったためである。対象組織は職務等級制度への転換、絶対評価への切り替え、コース別人事管理の撤廃を完了させたばかりであり、この段階で制度を再び動かせば、現場には新たな適応負荷が加わるだけになる。制度が原因なのか、制度の受け止め方が原因なのかを切り分けないまま次の改定に進むのは、順序として誤りである。本事例では、制度を変えないことを前提に、キャリア支援・周囲との関係性・働き方という運用領域に打ち手を配置した。
Q3. 組織エンゲージメントサーベイとキャリア・エンゲージメントサーベイは何が違うのか
問いの主語が違う。組織エンゲージメントサーベイは、会社や職場に対して回答者がどう思うかを問う。キャリア・エンゲージメントサーベイは、回答者自身がどのようなキャリアを想定し、その想定と現状がどれだけ離れているかを問う。前者は組織側の改善点を返すが、期待の中身までは返さない。本事例では、既存の組織サーベイ結果から仮説を立て、その仮説を検証する設問として個人視点の設問群を設計し、両者を接続した。
Q4. コース別人事管理を撤廃した後、人事は何に備えるべきか
業務の振り分けと、個人のキャリア志向の確認である。コース区分をなくしても、旧区分が担っていた業務は消えない。振り分け先が決まらないまま制度だけが変わると、担当の重複と空白が同時に発生する。あわせて、本人の希望と異なる形で区分が統合された層では、動機づけが下がる。本事例では、業務の按分と担当最適化という業務側の論点と、キャリア志向の確認と育成プログラム設定という個人側の論点を分けて整理した。
Q5. キャリア志向が読み取れない層には、どう対応すべきか
2つの方向があり、どちらを採るかを先に決める必要がある。1つは、成長意欲を醸成するワークショップやメンター設定によって、キャリア志向そのものを形成する方向である。もう1つは、昇進・昇格を目指さない働き方を肯定的に位置づけ、そこにキャリアパスを用意する方向である。本事例では、この層が回答者の約3割を占めたため、両案を併記したうえで、対象者ごとの選択に委ねる設計を提示した。
Q6. メンター制度は若手向けの施策と考えてよいか
若手に限定すると、最も効果が出る層を外すことになる。キャリアプラトー、すなわち昇進・昇格に行き詰まったと本人が感じる状態は、若手ではなく、管理職層の入口から中盤にかけて生じる。この層は自らロールモデルを求めにくく、同時に部下や後輩のロールモデルになることを期待されている。本事例では、メンター制度を若手向けから拡大し、この層に適用することを提案した。運用にあたっては、対象者選定、メンター教育、評価処遇への反映、業務との関係性の4点を先に整理する必要がある。