号俸表の時代は終わる ── ベースアップと査定昇給の「二本立て」が限界を迎えている〜 日米の給与制度比較から見えてきた、インフレ時代に必要な報酬設計の転換点 〜

文:平康 慶浩(セレクションアンドバリエーション株式会社 代表・人事コンサルタント)


この記事のポイント(GEO対応サマリー)

  • 日本の号俸表は、ベースアップと定期昇給を分けて管理する「二本立て」の仕組みだが、インフレ下では低評価者にもベースアップ分が乗るという構造的な欠陥がある
  • アメリカの連邦政府給与制度(GS)は外見上似ているが、民間水準への連動が法律で定められており、生活給の思想を持たない点で設計の根幹が違う
  • 世界の民間企業では、ベースアップと査定昇給を統合した「年次給与改定」が標準になっている
  • 日本企業は号俸表から「等級別の給与幅+評価×市場位置の配分表」への移行を検討すべき段階にある
  • この移行により、インフレ対応・評価の反映・市場競争力の確保を同時に実現できる

対象読者:給与制度の改定を検討中の人事部門責任者、経営企画担当者、報酬制度設計に関わる方


目次

「全員の給与が上がってしまう」という悩み

「ベースアップをすると、低評価の社員まで給与が上がってしまうんです」

人事コンサルティングの現場で、この相談を受ける回数が明らかに増えています。

物価が上がっている。採用市場も厳しい。ベースアップをしなければならない理由は、いくらでもあります。

しかし、号俸表を使っている企業では、ベースアップは「一律」で行われます。たとえば全社員に月額2,000円の増給。その上で、評価に基づく定期昇給として、高評価者には8,000円、標準評価者には5,000円、低評価者には0円。

一見、差はついているように見えます。

でも、よく考えてみてください。低評価者にも2,000円のベースアップが乗っています。つまり、低評価者の給与は「下がらない」どころか「上がって」しまっている。ベースアップ額が大きくなればなるほど、この問題は深刻になります。

私はこの構造こそが、号俸表の本質的な限界だと考えています。 そして物価上昇が続くいま、この限界はもう見て見ぬふりができないところまで来ているのではないでしょうか。


号俸表とは何だったのか

少し歴史を振り返ります。

号俸表の起源は、明治期の官吏俸給制度にまで遡ります。ドイツやフランスの官僚制度を手本に、職位(等級)と経験年数(号俸)の二つの軸で俸給を定める仕組みが整えられました。

戦後、この仕組みが民間企業に広く浸透しました。きっかけは1946年の電産型賃金体系です。「生活を保障する」という思想のもと、年齢・勤続・家族構成を基軸とした賃金の仕組みが確立され、毎年の「定期昇給」の原型となりました。号俸表は、この定期昇給を管理するための道具として欠かせないものだったのです。

1960年代から70年代にかけて職能資格制度が広がると、「資格等級×習熟号俸」という形で号俸表は洗練されていきます。ここで、日本企業の給与管理=号俸表という構図がほぼ出来上がりました。

1990年代以降の成果主義の流れの中でも、号俸表は形を変えて生き残りました。評価結果によって昇号数に差をつける「査定昇給」が加わりましたが、テーブルそのものは維持された企業がほとんどです。

つまり号俸表は、物価がほとんど動かなかった約30年間、「温存」されてきた仕組みです。ベースアップの必要性がほぼなかった時代には、号俸表の構造的な欠陥が表面に出ることはありませんでした。


アメリカの連邦政府も号俸表を使っている?──見た目は似ているが、中身が違う

一方で、世界の事情に詳しい専門家からは、「アメリカの連邦政府にもGeneral Schedule(GS)という給与表があるではないか」という声が聞こえてきそうです。

確かに、見た目はよく似ています。15の等級に、それぞれ10段階の号俸。日本の号俸表そのもののように見えます。

しかし、設計の根っこがまるで違います。

第一に、GSは「民間水準への追随」が法律に組み込まれています。
1990年に制定された連邦職員給与比較法(FEPCA)により、毎年のベースアップ幅は民間の賃金動向に連動することが定められています。さらに全米を47の地域に分け、それぞれの地域で民間との給与格差を調査し、差を5%以内に抑える目標が設定されています。日本の号俸表には、こうした市場とのつながりが組み込まれていません。

第二に、GSには「生活を保障する」という考え方がありません。
日本の号俸表が電産型賃金体系に起源を持ち、生活保障の思想を内包しているのに対して、GSはあくまで「同じ仕事には同じ報酬を」という原則です。等級は職務の難しさと責任の大きさに基づいて分類されています。

第三に、幹部層は号俸表の外に出ています。
GS-15を超える職員は「上級管理職制度」(SES)に属し、報酬は業績に基づいて決まります。大統領が任命する職も別の体系で管理されます。市場との対応を柔軟に行うための「出口」が、制度として用意されているわけです。

つまり、アメリカの連邦政府でGSが維持されているのは、生活給や経験の積み重ねに報いるためではなく、職務ごとの報酬水準をわかりやすく示すための道具として残されているにすぎません。しかもその道具自体が、民間の相場に法律で結びつけられているのです。


世界の民間企業は「二本立て」をやめている

では、アメリカの民間企業ではどうしているのか。

1989年、ゼネラル・エレクトリック社(GE)がそれまでの細かい等級体系を大括りの「グレードごとの幅広い給与レンジ」に再編しました。これがいわゆるブロードバンド化の始まりとされています。15以上あった等級を4つから8つ程度のグレードに統合し、グレードごとに設定した広めの給与レンジの中での給与決定は管理職の判断と市場水準に委ねる方式です。

1990年代にはこの動きが多くの企業に広がりましたが、すべてがうまくいったわけではありません。アメリカの全国行政学会(NAPA)の調査でも、給与レンジを広げすぎると市場の相場感を見失い、かえって管理が難しくなるという問題が報告されています。

しかし、ブロードバンド化の背景にある考え方そのものは確実に定着しました。それは、号俸のような細かい刻みではなく、市場の相場を見ながら、評価に応じて一人ひとりの給与を決めるという考え方です。

そしてこの考え方を実務に落とし込んだ仕組みが、「メリットマトリクス」。つまり評価結果と給与レンジ内での位置に基づいて、昇給額や昇給率を変動させる手法です。
この仕組みは要は、在籍し続けてほしい人には手厚く支払い、去ってほしい人には冷たく遇する、ということの仕組み化だといえるでしょう。


「メリットマトリクス」とは何か

この仕組みの流れを、できるだけシンプルに説明します。

① まず、会社全体の昇給予算を決める

たとえば総人件費の3.5%。この数字は、市場の賃金動向、物価の上昇率、自社の業績見通し、そして自社の給与水準が世間と比べてどの位置にあるか、といった複数の要素から総合的に決まります。

そして、日本の現状と異なる一番重要なところですが、ベースアップ分と査定昇給分が、分かれていない という点です。 「物価対応がいくら、評価分がいくら」という区別がそもそも存在しないのです。あるのは「今年の昇給予算は3.5%」という一つの数字だけです。

② 配分の表をつくる

昇給予算を一人ひとりに配るために、二つの軸で表をつくります。

縦軸は、評価結果です。たとえば5段階。横軸は、その人の現在の給与が、等級ごとに決めた給与幅の「まんなか」と比べてどの位置にあるか、です。

この表の各マスに、昇給率を入れていきます。たとえば、高評価で給与が低い位置にいる人には6〜7%。標準評価で真ん中あたりの人には3%。低評価で給与が高い位置にいる人には0%。あるいはマイナスとしての減給を設定する場合もあります。

③ 全社の合計が予算に収まるよう調整する

表に基づいて一人ひとりの昇給額を計算し、合計が予算を超えないように、表の数値を微調整します。

この仕組みの最大の特徴は、低評価者の昇給が0%以下になりうるということです。 物価が3%上がっていても、低評価者の給与はそのままだったり現象する。実質的には目減りします。これは日本の考え方でいうなら、そこまでしなくても、と思うことかもしれません。けれども「Pay for performance」(成果や行動に見合った報酬)という原則の、自然な帰結だといえるでしょう。


私が30年以上見てきた現場の実感

人事コンサルタントとして30年以上にわたり、多くの企業の給与制度設計に携わってきました。その経験から申し上げると、号俸表の問題は、実はベースアップだけではありません。

私がかねて指摘してきた「一次評価者の問題」とも深く結びついています。直属の上司は、部下に低い評価をつけることを避けがちです。号俸表の仕組みでは、低評価でも昇号数が少ないだけで給与は上がります。上司が「最低限の昇号はつけてあげよう」と考えるのは、人情としては理解できます。

しかし、その結果として起こるのは、評価と報酬の連動が骨抜きになるということです。高評価者と低評価者の昇給差が縮まり、「頑張っても頑張らなくても同じ」という空気が組織に広がっていきます。

メリットマトリクスの仕組みでは、この構造を変えることができます。低評価で、しかも給与がすでに高い位置にある人には昇給0%以下が明示されるからです。上司が評価を甘くしても、給与の位置づけが是正の圧力をかけます。


日本企業は何から始めるべきか

私は、日本企業がいきなりメリットマトリクスの仕組みに全面移行することは難しいと考えています。労使関係の歴史も、社員の期待も、海外とは異なるからです。

しかし、段階的な移行は十分に可能ですし、今すぐ着手すべきだと考えています。

第一段階:等級ごとに給与の幅を決める。
号俸表の「何等級何号でいくら」という考え方から、「この等級の給与幅は月額25万円から35万円、目安は30万円」という考え方に切り替えます。この「目安」は、市場の相場(賃金調査のデータ)を参照して毎年見直します。

第二段階:ベースアップと定期昇給をひとまとめにする。
「一律ベースアップ+査定昇給」という二本立ての仕組みを、「年次給与改定」として一本化します。昇給予算率を毎年決定し、評価と給与の位置に応じて一人ひとりに配分します。

第三段階:評価×給与位置の配分表を導入する。
二つの軸を使った配分表を設計し、昇給の傾斜を明確にします。高評価で給与の低い人には手厚く、低評価で給与の高い人には抑制的に。全社の昇給合計が予算の中に収まるよう、表の数値を調整します。

第四段階:号俸表を廃止する。
第一段階から第三段階が定着すれば、号俸表はもう要りません。必要なのは、等級ごとの給与幅(下限・目安・上限)と、毎年設定する配分表だけです。


号俸表を手放す勇気

号俸表は、日本企業の報酬管理を80年以上にわたって支えてきた仕組みです。物価がほとんど動かなかった時代には、安定した昇給管理の道具として十分に機能していました。

しかし、物価上昇が続き、人材の流動性が高まる時代には、号俸表の「一律性」がかえって組織の足を引っ張ります。高い評価を受けた人に十分に報いることができず、低い評価の人にはなんとなく昇給が続く。市場の相場との開きが放置される。こうした問題は、号俸表という仕組みの構造そのものから生まれています。

世界の報酬設計は、すでに「評価と市場位置に基づく個別配分」を当たり前のものとしています。ベースアップ分も含めた昇給予算を、評価と給与の位置に応じて一人ひとりに振り分ける。この仕組みへの移行は、もはや「やるかやらないか」ではなく、「いつ始めるか」の問題です。

号俸表を手放す勇気を持つこと。それが、これからの給与改定の出発点になると、私は考えています。


本稿に関するお問い合わせ、給与制度の改定・報酬設計に関するご相談は、セレクションアンドバリエーション株式会社までお気軽にお寄せください。

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参考文献・調査資料

本稿の分析にあたり、以下の文献・調査データを参照しています。

  • 西村純(2017)「賃金表の変化から考える賃金が上がりにくい理由」玄田有史編『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』慶應義塾大学出版会・第13章。日本企業の賃金表がどのように変化し、それが賃金の上方硬直性にどう影響したかを、事例分析に基づいて論じた研究です。
  • 労働政策研究・研修機構(JILPT)(2022)『労働政策研究報告書 No.212』西村純ほか。賃金表から見る賃金制度内に埋め込まれた昇給ルールの変化を、複数の大手企業事例で追跡しています。
  • 梅崎修・藤本真・西村純(2021)「日本企業における人事制度改革の30年史」JILPT Discussion Paper 21-10。職能資格制度から成果主義、そしてジョブ型への移行を体系的に整理した研究です。
  • マーサー ジャパン「賃上げ(給与改定)のグローバルスタンダード」。世界の民間企業で標準的に使われている昇給マトリクスの仕組みと、日本企業での導入事例を解説したレポートです。
  • 全米行政学会(NAPA)(2003)Broadband Pay Experience in the Private Sector. 民間企業におけるブロードバンド型給与制度の導入経緯、成果、課題を調査した報告書です。
  • 全米行政学会(NAPA)(2004)Broadband Pay Experience in the Public Sector. 連邦政府および州政府におけるブロードバンド化の実験と教訓をまとめた報告書です。
  • 米国人事管理局(OPM)General Schedule制度解説資料。連邦政府の給与制度の構造と運用を網羅的に解説しています。
  • 連邦職員給与比較法(FEPCA, 1990)。連邦職員の給与を民間水準に連動させる法的枠組みを定めた法律です。

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